fioriprofumati’s diary

30手前で脱サラ、イタリアに留学。踊ったり音楽を聴いたり、いい匂いをかいだり美術館に行くのが好き。

好きなことに共通すること

練る時間がないけど、書き留めておきたいので、さらっと。

 

 

自分と向き合う時間が好きなのかもしれない

と最近やっと気づき始めた

 

ダンスが好きなのも、音楽が好きなのも、それに没頭しているときに自分と向き合えるからで、ダンスが好きとは言いつつレストランショーなどは苦手だった。

 

そして、香り。

これも自分の中を空にして、質のいい香木などの香料を焚いて香りを聞くことで潜在意識に働きかけられ自分の軸を立て直す力になる。

 

香りの楽しみ方もいろいろある。

複雑な香料の中身を当てたりとか、構成を考えたりとか...

 

でも私が好きなのはひたすら自分が自分へ意識を向けるきっかけになる楽しみ方なんだよな。

ハーブもそう。

 

バラバラなことやってるようで全部繋がってる気はしてたけど、イマイチ言語化できないでいた。

それが今日つながった気がしてる。

 

他人や外の世界がどうであれ、

自分の魂が納得する生き方をすること。

 

それに必要な体づくりや環境づくりを

私は踊りや香りに求めているし、恩恵も受けてる

 

いくど救われてきたかしら。

いつか私も誰かの気持ちを軽くする力になれるかな。

 

内向的な私だからこそ、できることへ

雪景色

今日、東京は雪が降った

東京生まれの東京育ちの私

 

雪ってやっぱり「珍しい」「ラッキー」「きれい」なイメージがあって

30を超えた今でも何となく雪の日はルンルンしてしまう

 

道を歩いていて、マスクからの蒸気でメガネが曇って前が見えなくなる

その瞬間あたまによぎったのは

 

「雪が見えくなっちゃう!!!!」

 

目の前に広がる、というより私を360度囲んで

世界がどんどん白くなっていく

 

隣の駅から自宅に向かう、普段の道路

1月の初め、枯れ枝に色づいた葉っぱが申し訳程度に残っている草木も多い。

 

そこに雪が降り注いで積もっていく

なんとまぁ。

わびさびの心が刺激されます

 

この概念を外国の人に説明するにはどう説明したらいいんだろう、と一瞬思ったけれど

言葉にしなくても、同じ空気の中で同じ景色を体感したら

きっと同じような心の動き方をするんだろうな、とおもう

 

もちろん全員じゃないかもしれないけど

その心の動きを言葉に表すときは

きっと自らの経験、囲まれてきた環境が大きく影響するだろうから

ひとそれぞれダイナミックに個性が現れるところだと思うけれど

 

絵画も音楽も踊りも、アートにも「個性」の概念があるけれど同時に言葉にならない感動を共有できたりする

言葉の表現にも「個性」の概念があるけれど、同時に個々の頭の中や心に散らばった意思・気持ち・事実を共有できるツールでもある

 

たまに、芸術 vs 言葉 というカテゴライズがあるように感じるけれど

カテゴライズする必要は、あまりないのでは??

 

 

今日は雪を見て雪はきれいだな、さすが雪景色・雪化粧といった言葉が生まれるくらいだものなぁなんて考えていたけど

どの天気にもそれを美しく響かせる言葉があるよなぁ

 

雨音

陽だまり

風が舞う

...

あなたの好きな言葉は、なんですか

 

 

 

こもれび

最近また、余裕がなくなっていたみたい

 

それもそのはず、(ありがたいことに)

お仕事がつまって朝から夜中までパソコンにかじりつきの毎日。

 

Netflixでだらだらドラマを見ていたら

「おかしいよ、脳を休めるための散歩もしないなんて!」というセリフがでてきて

 

私のことじゃないか、とピコーンとフラグがたち。

 

思い切って早起きして(といっても8時。。。笑)

 

グーグルマップで徒歩圏内に緑のかたまりがないか検索。

 

あった!

 

家から徒歩15分くらいのところに、いい感じの公園を発見。

 

さっそくスニーカーを履いてイヤホンを付けてお出かけ。

本も持った。

 

歩きはじめてすぐ、日光の力あまく見てた...と反省。

 

日光に自分が照らされるのもものすごく気持ちがいいし

 

陽の光に照らされた草花が放つ柔らかい色や輝きは

 

余裕のあるこころでお外に出ないと気が付かない。

 

公園につく前の段階で癒され始めているのがわかる。

 

公園についた。鳥の声が聞こえる。

イヤホンは、外す。

 

秋の訪れとともに色づいた背の高い木の葉の間から、木漏れ日が降り注いでいる。

 

こんなの見たのいつぶりだったかなぁ

 

太陽の光に覆われた世界の色は、私が知っている色の名前では分類しきれないほど

繊細に折り重なって、一度角度が変わるたびに微妙な変化をみせて、きらきらしている

 

公園には広場があり、たくさんの保育園児たちが伸び伸びと遊んでいた

 

高台から公園を見渡し、日当たりの良さそうかつ人がいないベンチに目星を付ける

広場を突っ切ってそのベンチに座り

深呼吸してみたり、空を見てみたり、持ってきていた本を読んでみたりする

 

脳が、休んでる。そう感じた。

 

今度は寝っ転がりたくなってしまったので公園を後にすることにした

公園の出口付近には、休憩してるサラリーマン風の人が何人かいた

 

みんな疲れるよな・・・おつかれさまです、と心の中で会釈しながら彼らの横を通り過ぎる

 

どんぐりが落ちているのが視界に入って、思わず写真を撮る

 

小さい時、実家の近くの公園で母とどんぐりをみつけるのが大好きだったのを思い出した

当時の私にとってどんぐり拾いは、この世の中で知っている楽しいことのすべて、くらいの勢いで真剣にどんぐりを拾っていたけれど、大人の母からしたら他にもたーーーーーくさん楽しいこと、やるべきことを知っていて、その中のちっぽけな「どんぐり拾い」だったのに、私に合わせて辛抱強く付き合ってくれてたんだなぁとおもうと、はらりと涙が出てしまった

 

そんなこんなで朝の公園タイムでかなり癒された。

仕事をものすごく頑張って、夜は件の英会話カフェへ。

 

数カ月前、入り口の目の前まで行ってあと一歩が踏み出せず踵を返したあの場所へ

今は堂々と入れるようになりました

 

少し、精神的にパワーが付いたかもしれないなぁ

木、自然の画像のようです

 

アウトドアの画像のようです

●●が好き

●●が好き、と一口に言っても

万人がその●●を同じように楽しむわけではないし

何をもって好きというのかも

人によってそれぞれだ

 

こんなことをわざわざ記事にしたいと思ったのは

踊りが好き

という一文を巡る受け手の反応、

それに対する「踊りが好き」といった本人の感じる違和感について

数年の時を経てやっと言葉にできそうだからだ

 

踊りが好き

という風に言う時、どうやら

「明るいリズムに乗るのが好き」

「人を楽しませるのが好き」

「楽しい雰囲気が好き」

と解釈されることが多いようだ

 

私の場合、もちろんそれらの要素もあるが

それよりも

「心に訴えかけるような音楽に、自分の記憶や感情を重ね合わせることができた時、普段の生活では理性が勝って抑え込んでいた自分自身を、解放することができるから好き」「言葉を介したコミュニケーションの限界を越えられるから好き(特に私はこと自分のこととなると、あまりあけすけに話すことは得意ではない=言わなさすぎる、という状況に陥りがちだ)」という要素が格段に上回る。

 

自分の中で踊りに求めていることや、なぜ踊りをやめないのかの理由、つまり私自身の「ダンス」というものへのイメージと

私をレストランダンサーというくくりで見る人(そのお店のお客さん)とにとっての「ダンス」のイメージが違うんだ、という違和感を感じたのが始まりだった。

 

ジャンルが違うとはいえ、青春時代からずっとダンスをし続けているので、必然的に私の周りには「踊りを踊る人」が多い。その、踊る人の中でさえも必ずしも私と同じように情緒的な部分への懸け橋として踊りを位置付けている人ばかりではない。むしろ、それを嫌う人も存在する。同じダンススタジオに通っていたって、そうだ。

 

あるとき、同じスタジオの仲間にこう言われた。

「ななちゃんの踊りはレストランの照明じゃない、ステージの照明をあびてこそだね!」

 

言われてからしばらくは、なんかトゲのある言い方よな~とひそかにむっとしていたのだが、彼女の言うことにも一理ある。というか、的を射ている。

 

ステージで踊るとき、多くの場合ステージが額縁となりその中で「作品」を

展開させることができる。そこでは、感情や記憶を投影させて入り込むことが許される。むしろ、それが味になったりする。

 

ところがレストランではそうではない。目的は、お食事しているお客様に楽しい時間を提供することだ。食事をしていたらいきなりショーが始まって、ダンサーが出てきたと思ったら自分の世界に入り込んでいる、というのでは「世界観の押し付け」になり得るし、その世界観の合わないお客さんにとっては、つまらない時間になってしまう。

明るく、ときに色っぽく、はたまたコケティッシュさを醸し出してみたり、いろんな演出を駆使しながら、その時その一瞬の空気をどう温めることができるか、そんな力が求められるのがレストランダンサーなんじゃないかと思う。

 

ありがたいことに、趣味として長らく続けてきた結果、レストランで踊る機会をいただくことも多くなった。もちろん楽しく踊ることだって大好きなので、そのような機会ではいかに楽しい時間にできるか、自分の最大限を引っ張り出せるようにと思って構成を練ったり練習したりしている。

 

細かく言えばもっと複雑に分かれるが、ここでは便宜上「レストラン」か「作品」か、という分け方をしたいとおもう。

 

私は「レストラン」用の練習をしているとき、割と苦しかったりする。元来自分のキャラクターが盛り上げ役ではないから、これで本当に楽しんでもらえるんだろうか、という不安がなかなかぬぐえないのもある。気持ちが乗っている日は、ドンドン踊れるけれど、気持ちが乗っていない日は、心と体が乖離しているような気分になって、「私のやりたいことってなんだっけ」なんて思考が始まることすらある。

 

対して、「作品」用の練習をしているとき。私は、ほとんどの場合自分の記憶や経験を投影させたり、感情をのせて踊っている。他の人が作った振付でもそうだ。振り付けはたーーーーーくさん習ってきたけれど、発表する機会に何を踊るかと考えた時に、自分の脳の海馬にビリリと刺激が来たものを演目として自然と選んでいたことに気が付いた。

個人的な話だが、私はどちらかというとセンシティブな方だ。そして、「言葉」を通して人に共感を求めたりすることはとても不得手だ。結果として、心の内を人に明かせず大事なことほど誰にも言えないで一人よがりになるまで抱え込むこともままある。

それは、時として孤独のような感情になることもあるし不安として現れることもある。

それを生身の人間に説明する術を私は良く知らない。

そんな時、ビリリ、ときた演目を練習したり踊ったりしていると、「あの時本当は私はこう思っていた」とか悔しい、寂しい、やるせないなどといった感情をとても客観的にとらえることができるし、概して音楽というものはとても美しいので、そういったあらわにされた感情を、スーッと流すことができたりする。

イライラしていても、人を恨みそうになって暗い気持ちに取りつかれていても、気持ちを静めることができる。

そんな演目を練習して、練習して、練習しきって、目をつむっていても流れるように踊れるようになったりすると、最高の癒しだ。

 

ここでスタジオ仲間に言われた言葉に戻るが、

「ななちゃんの踊りはレストランの照明じゃない、ステージの照明をあびてこそだね!」

というのは当たり前なのだ。

照明云々の話はいったん置いておいて

レストラン用の練習とステージ(作品)用の練習では、私というアイデンティティのコアへの響き方に雲泥の差がある。違って当然なのだ。

 

 

話がそれてしまったかもしれないが、

レストランで輝く人もまた「踊りが好き」な人なのだ。

でもその言葉の後ろにあるストーリーは、私が「踊りが好き」と口にするときとまた異なるはずである。

 

それぞれのストーリーを垣間見れることの面白さ、という意味で踊りはとても楽しい。

表面の一次情報のその奥にあるものを想像できる人になりたい、のかもしれない。

コンプレックスについて

今日はコンプレックスのおはなし。

 

あまり言ったことはないけど

 

数ある身体の気になる点の、私の最大のコンプレックスはといえば

 

脚。

 

自分の中から脚の存在を消すほど

 

というか見て見ぬふりするほど、鏡に全身を映しても脚は見ないという技を習得するほど、嫌いでした。

 

でもあまり口に出したことはない。

 

だって、脚が嫌なんです~だなんて言ったら、悪気がなくたって「そうかな?」なんていいながら私の脚を見るでしょう?

 

誰からも意識を向けてほしくないから、言いませんでした。

 

何が嫌だったのか:

ずばり太い

 

たぶん元の遺伝的な骨格もあるけれど、幼少期から水泳、テニス、ジャズダンスやベリーダンスetcとやってきたうえに、歩くのが大好きで気分さえよければヒールでも数時間歩いてしまう私の脚は、ちょっと男性がびっくりするくらいの筋肉質。

加えて背が低いので縦の要素が足りなくてずんぐりむっくり。

 

私だって、細い足が美しいとされるこの風潮の中、ミニスカートをはきたい思春期を経て32年間ちょい、脚を細くしたくてそれはそれはいろんなことを試しました。

 

大学時代のサークルでは脚が太いから「あまり見せないで」って太い人用の衣装をあてがわれたり

大人になっても「細い脚が好きだからダンス辞めて筋肉落としてほしい」などなど言われ悔しい思いをしたことも。

 

サランラップでぐるぐる巻きにしたり、毎日仰向けで脚を上げてむくみとったり、

ストレッチしたり、内転筋鍛えて外側の筋肉つかわないようにして減らしたり…

考えられること、たくさん、たくさん。

思い出すと泣けてくるな。笑

 

でも、いわゆる「細い脚」にはなれなかった。

「美脚」に憧れることすらもなくなりました。自分の土俵ではないから。

それでも誰かが「脚」というワードを出すたびに心の中では過剰反応で、自分のことを言われてるわけではないのに胃がえぐられるくらい嫌でした。

 

 

今年になって、ダンスの時の足さばきがどうもかっこ悪いのを直したくなって、見えないふりしていた自分の脚に向きあわざるを得なくなりました。もう、鏡に映る自分を見るのが本当に嫌だった。

でも、「敵を知り、己を知る」です。何にせよ、自分の目で見て現状を認識しないと。

 

その日からレッスン着も足さばきが自分で見えるものにしました。

自分の目に留まるということは他人の目にも留まるということで、

いやだなぁと思うこともありました

 

ただ、いま私は己との戦いをしています。

他人からの目線に傷ついてしおれているバヤイではないのです。

 

そんなこんなで試行錯誤している最近。

自分の耳に入ってくる脚へのフィードバックが、

ポジティブなものが多くなってきた、ような気がしています。

 

細くないので、細いとはいわれないけど、

立派な脚、とか、ハリがある、とか、これまでの経験の詰まった脚、とか。

 

あんなに耳をふさいでいた脚関連のコメントなのに

自分を認めてもらったようで

とても嬉しい。

 

いまだに毎日鏡を見ては

「太っ」

って思ってますが、

太さを愛してチャームポイントにできるようにしていきたいな

 

人の身体的特徴は、

その人のこれまでの歴史が詰まってる美しいものだと

考えられるチャンスをくれた脚を自分で悪く言うのをやめてみようと思う

 

ポジティブな変換をしてくれた私の周りの人に心からありがとう💛

ビニール傘

なんかちょっと誰かと話したいな〜

 

最近英語使ってないし

 

ひさしぶりに英会話カフェでもいくか!

 

と思い立った土曜日の寝起き。

 

既に昼はすぎている。

 

シャワーを浴びるも、髪の毛の調子が悪い。

 

おもむろにヨガマットをしいて

 

ごろごろ。ごーろごろ。

 

スマホタイム。

 

のそのそ着替えてメイクをする。

 

とたんにお出かけしたいモード。

 

ちょっとウキウキして扉を開ける。

 

ムワッとした空気に包まれる。そうか、もう7月か。

 

下○井戸駅の待合室は、気温が30度を超えると空調が入る。

 

汗をかきながら駅に入ると、空調中の待合室が目に入る。暑いんだな、と改めて感じる。

 

とことこ電車に揺られて、目的地の駅へ。

 

1、2時間仕事をして英会話カフェへ行く。

 

ドアの前にあふれ出てくる楽しそうな声にしり込みする。

 

今日は人と交流するまでのエネルギーやっぱりないかも。。と踵を返す。

 

ふがいなさを感じつつ、しゃべらなくていい別のお店で少しだけ時間をつぶして外へ出た瞬間、ぽつぽつ、、、ピカッ!ザーーーー。

 

5分の距離にある駅にすら行けないほどの大雨。

 

コンビニが目の前にあったので、思わず駆け込んで傘売り場へ向かう。

 

と同時に、脳裏によぎるのは我が家に所狭しとならぶビニール傘たちの様子。

 

もはやスコールのような降り方の雨。

スコールなのだとすれば、ある程度の時間で落ち着くはず。

 

結局何も買わずにコンビニを出て、コンビニが入っていたビルの軒先で雨宿りさせてもらうことに。

同じような考えの人たち数人と、一定の距離を保ちながら、どれくらいでやむかなぁお腹すいたなぁ、蒸し暑いなぁ、とぼーっとする。

 

傘をさしたおじさんが外から帰ってきた。

おじさんが通れるように、気持ちばかり道をあける。

 

このビルは商業施設(ぱっと見居酒屋さん風ばかり)しか入ってないようだし、いまは緊急事態宣言中の21時。ビルの入り口自体暗い。つまり、営業はしていない。仕込みや事務作業かな、大変だなぁと勝手に妄想してから視線を外し、全く別のことを考えようとしたとき。

 

一度通り過ぎたおじさんが戻ってきた。私に話しかけているらしい。イヤホンを外す。

「おじさんもう傘使わないから。これ使って。」

さっき見た後ろすがたからは想像できなかった、優しい満面の笑み。

 

お礼を伝えて、ありがたく傘を受け取って、帰りの途へ。

お腹がすいていたし、仕事がまだ残っていたから本当にありがたい。

それ以上に、人の優しさってこんなに温かいんだなと感じさせてもらえたこと。

 

下高〇戸に着いたら、雨はもう止んでいた。

それでも私は手の中のビニール傘をまるで宝物のように握りしめていた。

いつもと違う色に見えた、帰り道。

 

 

 

 

6人前

特段料理上手なわけでも、手際がいいわけでもないが料理が好きだ

 

自分が食べることが好きなので、いつでも好きな時に好きな味のものを食べたい、

 

というなんとも食いしん坊な理由からお料理をするようになった

 

もちろん、元がずぼらなので

 

一瞬で食べ終わってしまうのに

 

毎回のお料理に伴う準備や片付けが面倒くさくてたまらないことが(多々)ある

 

それでもやっぱり

 

調理前の食材の色を楽しんだり

 

とんとん切ったりぐつぐつ煮たりジュージュー焼いたり(this is the beauty of Japanese オノマトペ!)

 

湯気から立ち上るいい匂いに思わずほころんでしまったり

 

こういう、味覚だけじゃない感覚も楽しい。

 

(お茶を淹れる、ただそれだけでもそのお茶の一番いい香りを楽しめるのは淹れた人の特権、と本で読んだことがある。)

 

後片付けに関しては、洗って調理台をきれいにするところまでは気持ちよくて大好きだ

 

なぜか、洗ったものを拭いて棚にしまうのが苦痛で常に食器を出しっぱなしにしてしまうけど

それはもう、仕方がない。数時間後にまた使うし。ずぼらなのではない、効率的なのだ。

 

先日、好きなお料理家さんのレシピで「夏野菜のサルサ」を作った。

 

作ったの私?!もしやお料理上手?!となるくらい美味しかった。

 

ただ、作ってる間に薄々感じてはいたけど。。。

 

6人前のレシピだった。(私は1人暮らし)

 

狭すぎる家なので誰かを招くこともできないし。

 

一部冷凍したけど、どうやって消費しようかな~

 

ディップのほかに、冷製パスタにするか、オムレツにかけるか...

 

あれ、意外と早くなくなるかも。

 

でも、こんな時に限って他にも作りたいものがたくさん。

食材も買ってきてしまっている。値引きにつられて買った今日までのひき肉もあるし。

 

どうしましょう!

 

でも、たくさん食材買い込んで、お料理する時間と心の余裕があるって、私にとってはとても贅沢。

 

嬉しい悲鳴、これです😊