fioriprofumati’s diary

30手前で脱サラ、イタリアに留学。踊ったり音楽を聴いたり、いい匂いをかいだり美術館に行くのが好き。

●●が好き

●●が好き、と一口に言っても

万人がその●●を同じように楽しむわけではないし

何をもって好きというのかも

人によってそれぞれだ

 

こんなことをわざわざ記事にしたいと思ったのは

踊りが好き

という一文を巡る受け手の反応、

それに対する「踊りが好き」といった本人の感じる違和感について

数年の時を経てやっと言葉にできそうだからだ

 

踊りが好き

という風に言う時、どうやら

「明るいリズムに乗るのが好き」

「人を楽しませるのが好き」

「楽しい雰囲気が好き」

と解釈されることが多いようだ

 

私の場合、もちろんそれらの要素もあるが

それよりも

「心に訴えかけるような音楽に、自分の記憶や感情を重ね合わせることができた時、普段の生活では理性が勝って抑え込んでいた自分自身を、解放することができるから好き」「言葉を介したコミュニケーションの限界を越えられるから好き(特に私はこと自分のこととなると、あまりあけすけに話すことは得意ではない=言わなさすぎる、という状況に陥りがちだ)」という要素が格段に上回る。

 

自分の中で踊りに求めていることや、なぜ踊りをやめないのかの理由、つまり私自身の「ダンス」というものへのイメージと

私をレストランダンサーというくくりで見る人(そのお店のお客さん)とにとっての「ダンス」のイメージが違うんだ、という違和感を感じたのが始まりだった。

 

ジャンルが違うとはいえ、青春時代からずっとダンスをし続けているので、必然的に私の周りには「踊りを踊る人」が多い。その、踊る人の中でさえも必ずしも私と同じように情緒的な部分への懸け橋として踊りを位置付けている人ばかりではない。むしろ、それを嫌う人も存在する。同じダンススタジオに通っていたって、そうだ。

 

あるとき、同じスタジオの仲間にこう言われた。

「ななちゃんの踊りはレストランの照明じゃない、ステージの照明をあびてこそだね!」

 

言われてからしばらくは、なんかトゲのある言い方よな~とひそかにむっとしていたのだが、彼女の言うことにも一理ある。というか、的を射ている。

 

ステージで踊るとき、多くの場合ステージが額縁となりその中で「作品」を

展開させることができる。そこでは、感情や記憶を投影させて入り込むことが許される。むしろ、それが味になったりする。

 

ところがレストランではそうではない。目的は、お食事しているお客様に楽しい時間を提供することだ。食事をしていたらいきなりショーが始まって、ダンサーが出てきたと思ったら自分の世界に入り込んでいる、というのでは「世界観の押し付け」になり得るし、その世界観の合わないお客さんにとっては、つまらない時間になってしまう。

明るく、ときに色っぽく、はたまたコケティッシュさを醸し出してみたり、いろんな演出を駆使しながら、その時その一瞬の空気をどう温めることができるか、そんな力が求められるのがレストランダンサーなんじゃないかと思う。

 

ありがたいことに、趣味として長らく続けてきた結果、レストランで踊る機会をいただくことも多くなった。もちろん楽しく踊ることだって大好きなので、そのような機会ではいかに楽しい時間にできるか、自分の最大限を引っ張り出せるようにと思って構成を練ったり練習したりしている。

 

細かく言えばもっと複雑に分かれるが、ここでは便宜上「レストラン」か「作品」か、という分け方をしたいとおもう。

 

私は「レストラン」用の練習をしているとき、割と苦しかったりする。元来自分のキャラクターが盛り上げ役ではないから、これで本当に楽しんでもらえるんだろうか、という不安がなかなかぬぐえないのもある。気持ちが乗っている日は、ドンドン踊れるけれど、気持ちが乗っていない日は、心と体が乖離しているような気分になって、「私のやりたいことってなんだっけ」なんて思考が始まることすらある。

 

対して、「作品」用の練習をしているとき。私は、ほとんどの場合自分の記憶や経験を投影させたり、感情をのせて踊っている。他の人が作った振付でもそうだ。振り付けはたーーーーーくさん習ってきたけれど、発表する機会に何を踊るかと考えた時に、自分の脳の海馬にビリリと刺激が来たものを演目として自然と選んでいたことに気が付いた。

個人的な話だが、私はどちらかというとセンシティブな方だ。そして、「言葉」を通して人に共感を求めたりすることはとても不得手だ。結果として、心の内を人に明かせず大事なことほど誰にも言えないで一人よがりになるまで抱え込むこともままある。

それは、時として孤独のような感情になることもあるし不安として現れることもある。

それを生身の人間に説明する術を私は良く知らない。

そんな時、ビリリ、ときた演目を練習したり踊ったりしていると、「あの時本当は私はこう思っていた」とか悔しい、寂しい、やるせないなどといった感情をとても客観的にとらえることができるし、概して音楽というものはとても美しいので、そういったあらわにされた感情を、スーッと流すことができたりする。

イライラしていても、人を恨みそうになって暗い気持ちに取りつかれていても、気持ちを静めることができる。

そんな演目を練習して、練習して、練習しきって、目をつむっていても流れるように踊れるようになったりすると、最高の癒しだ。

 

ここでスタジオ仲間に言われた言葉に戻るが、

「ななちゃんの踊りはレストランの照明じゃない、ステージの照明をあびてこそだね!」

というのは当たり前なのだ。

照明云々の話はいったん置いておいて

レストラン用の練習とステージ(作品)用の練習では、私というアイデンティティのコアへの響き方に雲泥の差がある。違って当然なのだ。

 

 

話がそれてしまったかもしれないが、

レストランで輝く人もまた「踊りが好き」な人なのだ。

でもその言葉の後ろにあるストーリーは、私が「踊りが好き」と口にするときとまた異なるはずである。

 

それぞれのストーリーを垣間見れることの面白さ、という意味で踊りはとても楽しい。

表面の一次情報のその奥にあるものを想像できる人になりたい、のかもしれない。